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山下ふ頭とは?

横浜港湾施設の歴史は開港以来国際情勢と深く関わりを持ってきました。

象の鼻から始まるふ頭・さん橋の歴史から横浜近代史を読み解くことができます。

ここ、山下ふ頭誕生の経緯を振り返ることで横浜港の歴史の断片を探ってみることにします。(図版1)

 

※ふ頭とは、港内で、船を横づけにして荷物の積み卸しや旅客の乗降などをする区域のことで陸から海に突き出して設けるものが多い。

※埠頭の埠は常用漢字に無いため公共港湾施設では「ふ頭」と表記されることが多いようです。

 

図版1:横浜港のふ頭の歴史
図版1:横浜港のふ頭の歴史

◆北風に強いふ頭

山下ふ頭は1963(昭和38)年に竣工、関係者念願のふ頭として誕生します。10年の月日を経て大きく二期に渡る工事が進められ、広さ47ha、10のバースを擁し臨海公園の山下公園に隣接する在来貨物中心のふ頭でした。中心市街地に隣接するふ頭機能の役割が大きく変化する中、今回の「山下ふ頭」再利用計画が持ち上がります。

 

横浜及び横浜港は敗戦後、港湾施設を含め市の中心部の大半が接収され港湾経済はストップ状態でした。開港以来日本の最大貿易港であった横浜港が長期間全くの停止状態を余儀なくされたのです。 

実は横浜港は初期桟橋時代から北向きの地理的弱点があり、世界の国際港の中でも北風に弱いというウィークポイントが指摘されていました。

築港計画は大さん橋、新港ふ頭を拡充し関東大震災を乗り越えて、他の港湾都市と競いながら更なる国際貿易港としての位置を維持します。

さらに発展するには、北風に強いふ頭を横浜港に造りたいという願いがありました。それが瑞穂ふ頭計画です。(図版2)

図版2:昭和8年横浜港俯瞰図一部
図版2:昭和8年横浜港俯瞰図一部

この計画は震災復興が着々と進む中、1925(大正14)年に着工し1945(昭和20)年に完成します。横浜港北側に位置し、首都との大動脈である京浜運河に沿い横浜港最大のふ頭計画が実現することになります。

俯瞰すると横浜港を北側から包み込むように瑞穂ふ頭が完成します。

 

しかし皮肉にも、敗戦と共に完成したばかりの瑞穂ふ頭をはじめ全ての港湾機能は厳しい接収時代を迎えることになります。

横浜港機能がようやく動き出すキッカケが訪れます。

1951(昭和26)年サンフランシスコ講和条約正式名称「日本国との平和条約」の締結です。

ところが、同時に米国との間に米ソ冷戦を反映した「旧日米安保条約」が吉田茂の判断で結ばれます。

これによってその後も米国による一部の接収状態が継続され横浜経済、日本経済の要が使えないことに加え、朝鮮戦争勃発で市内、国内の米軍接収施設返還交渉がさらに進まない政治状況となります。

 

このような中で、横浜市は官民上げて経済復興の基盤となる港湾施設返還運動を起こしますが、最も使い勝手の良い「瑞穂ふ頭」は返還されることなく現在に至っています。

ここに瑞穂ふ頭の代替案として山下ふ頭整備計画が生まれてきた経緯があります。

瑞穂ふ頭
瑞穂ふ頭

◆その後の山下ふ頭

造船を含めた港湾経済は、大きくうねるような国際経済の影響を受けます。空の港の時代、航空機に変わる移動手段の変化は貨客船運航の大幅減数をもたらし、横浜港を含めた国際港から多くの航路が消えてゆきました。

背景には国内貨客船の大半が戦時徴用により沈没、氷川丸等のほんの一握りの貨客船を残すのみとなり「飛鳥」就航まで日本郵船は客船事業から撤退という厳しい時代がありました。

 

また海運はコンテナという全く新しいモジュールの登場で、艀時代の終焉に象徴される港湾風景を一変させます。

横浜港中心市街地に隣接するふ頭機能は、新ロジスティック問題に直面します。モータリゼーションの進化による慢性的渋滞が社会問題化、首都圏の弱点となります。

 

山下ふ頭からの物流機能回復のために山下公園に沿って貨物線が延伸されます。

その様子は当時60年代の大ヒット映画「赤いハンカチ」の一シーンに残されています。

さらに高速湾岸線との直結も計られましたが、時代は大規模コンテナヤードに集約されるようになります。

 

◆インナーハーバー

横浜港は中心市街地を包みこむように三重のサークル(インナーハーバー※)として捉えることができます。(図版4)

※H21発表の「都心臨海部・インナーハーバー構想」における三重サークルとは少し異なります。

  • 第一 開港以来の初期(歴史的みなと圏)防波堤
  • 第二 新山下・ベイブリッジ大黒ライン
  • 第三 シンボルタワー・鶴見つばさ橋ライン

このようなサークル状の港は数少なく大変魅惑的な構造といえるでしょう。

横浜港は現在インナーハーバーラインをはるかに超え外洋ふ頭(新本牧)へさらには磯子・金沢へと拡張。

この山下ふ頭の位置する歴史的みなと圏は、新しい役割へと変わりつつあります。

図版4:インナーハーバー
図版4:インナーハーバー

◆主なふ頭

<開港から戦前まで>

  • 象の鼻桟橋⇒鉄桟橋⇒大さん橋ふ頭
  • 新港ふ頭拡張
  • 高島埠頭(現在のみなとみらい中央地区に位置していた)
  • 山内ふ頭
    内国貿易埠頭として1928年(昭和3年)より
    整備が開始され、1932年(昭和7年)に完成

<戦後>

  • 出田町ふ頭(山下ふ頭と同時期)
  • 大黒ふ頭
  • 本牧ふ頭
  • 新本牧ふ頭
幻のふ頭計画
幻のふ頭計画

◆役割の変化

戦後、横浜港湾物流機能が不足していた時期に山下公園(臨海公園)をふ頭化する計画がありました。

遡れば新港ふ頭計画も時代とともに変化してきました。湾岸最大のみなとみらい21計画により造船所が巨大都市に変貌しました。中心市街地も大岡川河口域から帷子川河口域へと拡大しました。横浜港は時代ニーズに追われていた時期もあります。この先の水辺機能は多様な視点で、長い時代を踏まえた論点で検討していくことではないでしょうか。

 

■山下ふ頭の土地の現状

<所有者面積>

  • 民有地 0.5ha
  • 国有地 1.5ha
  • 市有地 45.0ha

合計 47.0ha

 

戦後直後、山下公園(臨海公園)のふ頭化が計画された当時の図版
戦後直後、山下公園(臨海公園)のふ頭化が計画された当時の図版