一般的な横浜形成史は多くの既出資料に任せたい。ここでは現在の都市横浜の特徴的なポイントと、これまで枕詞のように語られてきた横浜像に対し異なった視点を提起することにしたい。
横浜市域は、拡張と再生の歴史を歩んできた。
深い入海を干拓し広大な新田を確保。谷戸を繋ぎ二世紀の間、地域の生産性を支え、開港と明治近代化を転機に、市域を拡張し埋め立てにより港湾施設を拡充してきた。
この間、忘れてはいけないことがある。大火、震災、空襲、接収という苦難を乗り越え再生の歴史を刻んできたことだ。
横浜村最初の画期は江戸開府と街道の整備と新田誕生である。これによって神奈川・保土ケ谷の近郊として宿場経済圏となった。
大岡川河口の深い入海が干拓によって陸地となったことで、地域に大きな変化が起こった。野毛・太田と対岸だった中村(石川中村)そして横浜村が道で繋がったのである。物流・人流が大きく変わり、地域力が高まったといえるだろう。
この入海に着目したのが江戸の材木商である吉田勘兵衛である。彼は敢えて街道に近い帷子河口ではなく一つ丘を越えた大岡川に新田事業を興し近代まで吉田家がこの水田を維持してきた。
現在の関外開発が順調に進んだのも大阪出身の勘兵衛が水利権闘争の少ない大岡川河口を選び、野毛から始め11年の歳月をかけて、事業規模56万8000坪、水田規模35万坪の新田開発に成功したからである。
横浜村を含む大岡川河口域は近代以降枕詞として「百戸に満たない半農半漁の寒村」と謳われてきた。幕府直轄地であり東海道有数の宿場の経済圏に大岡川下流域の村落は含まれ、漁業、農業、林業をベースに新田を活かした東海道保土ヶ谷宿の経済圏としてまた、観光地に匹敵する洲干辮天を護る豊かな暮らしの集落であった。
また貧しさの比喩として半農半漁と表現されるが、海を活かした村の生活は多様で多能な人々による豊かな暮らしがあった。横浜が寒村であるならば近世日本の農村の大半は寒村ということになるのだ。
さらに付け加えると海際に水田を敢えて作る。それは稲作の大敵塩との戦いでもあった。新田完成から約二世紀塩と戦い維持し続けた努力は、農業土木史の視点からも評価できるだろう。
横浜は近世以前から房総千葉を含む内湾(東京湾)経済圏が成立し水運も盛んに行われていた。特に近代は房総(富津)と水上で深く繋がっていたことも忘れてはいけない。
開港後、近代化の先端都市として拡張するなか、サークル状の良好な港湾環境にあることも幸いし国際港の位置を確固なものにしてきた。
河口を軸に湾岸を埋め立て京浜航路を整備し港湾機能は飛躍的に拡張した。
しかし、苦難もあった。未曾有の関東大震災、経済恐慌、戦災、接収。戦後の人口急増を加え五重苦と呼ばれた。
横浜港湾史における一つの特徴は、湾岸機能を時代に応じ対応(再生)の歴史であったことだろう。
欧米と競った太平洋貨客船時代から長い戦後の接収時代を経て港は新しい物流競争の場となった。今、横浜湾は新しい役割の時代に入っている。すでに新港ふ頭は観光の軸となり、みなとみらいは湾岸新都市として輝いている。埠頭は新本牧へ拡張し、「山下ふ頭」は埠頭としての役割を離れ、全く新しい湾岸と内陸の結節点(結束点)として変化、交代の時代を迎えているのではないだろうか。
創造と拡張。喪失と再生の意味を再考したい。
河北直治
運河史研究家・濱橋会歴史部会