横浜の都市形成

市民が企画運営する次世代に向けた文化創造交流拠点をつくろう

横浜のイメージは大変良好だ。しかし戦後横浜のイメージは大変悪かった。先人達の将来を見通した先進的なまちづくりの結果良好な都市イメージは形成されたのである。戦後米軍による接収が長引き横浜のまちづくりは遅れた。都心部は接収解除後も都市形成が進まず、雑草に覆われた状態であったため「関内牧場」と揶揄された。一方、重工業化にともなう工場立地や高度経済成長による雇用増、東京のベッドタウンとしての住宅開発の増大、ベビーブームなどで人口が急増する。しかし急激な人口増加に対して、市の財政力では上下水道や小中学校などのインフラ整備に十分な対応はできなかった。

 

そんななか1963年の選挙で初当選した飛鳥田市長は、早速環境開発センターに横浜のまちづくり計画の作成を依頼した。同センターは、六大事業(都心部強化=みなとみらい21、金沢地先埋立、港北ニュータウン、高速道路、地下鉄、ベイブリッジ)を市に提案した。飛鳥田はこの壮大なプロジェクトを実施するために企画調整室(後の企画調整局)を創設し、同センターから田村明を室長として市に迎え入れた。

 

田村は都市デザインの手法を導入する。最初に取り組んだのは、JR関内駅前を高架で通過する首都高速道路横羽線の地下化への計画変更である。飛鳥田は自分で決裁済みの案を景観保護の観点から翻意し、高速道路の地下化を田村に依頼した。田村は旧建設省(現国土交通省)との粘り強い交渉を行い半地下化を実現した。駅前の眺望は守られ地下化した空間を活用して大通り公園を整備した。田村は自著のなかで市が国を説得したことは市職員に「やればできる」という勇気を与えたと記している。

 

横浜市で都市デザインチームの初代リーダーを務めた岩崎駿介は都市デザインの目標として、①安全で快適な歩行者空間の確保、②自然的特徴を大切にする、③地域の歴史的・文化的遺産を大切にする、④オープンスペースや緑を豊かにする、⑤ 海や川といった水辺空間を大切にする、⑥人々がふれあえる場、コミュニケーションの場を増やす、⑦形態的・視覚的美しさ、をあげている。都市デザインは、その後も馬車道商店街や赤レンガ倉庫の保存活用など多くの実績を積み横浜の都市イメージの向上に大きく貢献した。

 

都市デザインの精神は2004年に始まる創造都市政策「クリエイティブシティ・ヨコハマ」に受け継がれる。このリーディングプロジェクトが旧第一銀行と旧富士銀行の2つの元銀行ビルを拠点としたアートプロジェクトBankART1929である (現在は新高島のBankART  STATIONと

北仲のBankART KAIKOの2カ所)。BankART1929の成功により、北仲BRICK&北仲WHITE、ZAIM、本町ビルシゴカイ、万国橋倉庫などいくつものクリエイターが集まる拠点が関内に誕生した。これらの「創造界隈」が活動を開始したことで衰退が進んでいた関内地区は活力ある地域に変貌した。これは担当した市職員にとっても想定を超える成果であった。創造都市づくりは市が計画し、市民など民間の力で推進された共創の成果である。

 

先の見通せない時代にあって、市民の潜在的創造性の発揮と行政との共創によるまちづくりが求められる。そのためには市民が気軽に集い、イベントを企画し鑑賞したり、議論することで新しいアイデアが生まれる場や機会が必須である。このようなオープンでクリエイティブな市民知を形成する場を山下ふ頭に創出しよう。それは、地球環境問題、経済格差拡大、人口減少、高齢化、などグローバルイッシューやローカルな課題解決にも貢献する。市民知を結集し、文化、教育、子育て、福祉、医療、経済、まちづくり、環境、人権、等様々な分野のプロジェクトを展開するソフト先行型の活動からはSDG’sをふまえたまちづくりのヒントが生まれるだろう。都市デザイン、創造都市といった横浜のDNAをベースに、民間と行政の共創で、ポスト経済成長型の市民生活や都市のあり方を構想し提案するのだ。関東大震災の瓦礫で造成し多くの人に親しまれている山下公園に隣接する山下ふ頭に次世代に向けた創造の場をつくろう。

野田邦弘

横浜市立大学大学院 都市社会文化研究科客員教授